人生の避け事~『当然』という認識~

『当然』という認識は避けるものだ。

当然だと思われることも、当然と思うことも。

何故『当然』が避け事なのか、解説していく。

①『当然』と思っていることは人によって違う

さて、そもそも『当然』とは何か?

1+1=2と答えることができること?

「憂鬱」という字が書けること?

18歳を過ぎたら自動車の運転ができること?

そこで考えてほしい。

そのあなたの『当然』とは、他人にとっても『当然』なのか?と。

当然となるものの基準は、自分の知識や経験によるものが多い。

自分が知っていること・できること、あるいは知らなくて『当然』という見方もある。

育った環境、先生からの教え、親の教育、それまでの人生の経緯…それまでに得られた知識や経験は人によって異なる。

わかりやすいのが方言だ。

その地域では『当然』として話される言葉が、別の地域ではまるで通じなくなる。

環境によって変わる『当然』の一例である。

会社でも違う。

新人とベテランでは仕事への『当然』が違う。

ベテランは難しい作業ができて『当然』、けれど新人からすればそんなことはない。

このように『当然』というものは人によって違う。

そして、人によって違うからこそ、問題も起きやすい。

②『当然』とは思いこみ

人によって違う当然。

では何故に人によって違うのか?

それは、『当然』に絶対定義などないからだ。

先の例でいえば、

1+1=2

が理解できるのは当然と思う人が多い。

だがそれを1歳児にとって『当然』か?と問えば、NOとなるだろう。

しかし小学校に通う年齢を超えると、これは『当然』というものに変わる。

それは

・みんなが習うもの

・みんなが経験すること

という認識だからだ。

そう、認識だ。

事実ではない。

ここが重要だ。

「1+1=2」ということを、他人もわかっているはずという認識が『当然』と思わせる。

しかし本当にそうなのか?

実はその人に諸事情があり、学校に通えていなかったら?

だとすれば、その人にとって「1+1=2」は当然ではなくなる。

極端な例ではあるが、これが他人と『当然』が異なる理由だ。

『当然』とは事実ではなく、ただの『認識』にすぎない。

『当然』と思っていることは、あなたの「思い込み」に過ぎないのだ。

言ってしまえば、この世に絶対不変の『当然』は存在しない。

③『当然』は『感謝』から一番遠い

『当然』とは最も『感謝』から遠い。

何故なら、『当然』と思うことは、『そうであることが常』だから。

『当然』とされる行為は、プラスでもなければマイナスでもない。

ただのゼロだ。

何度も例に出すが、

1+1=2

は、小学1年生が解けると褒められる。

何故なら小学1年生にとって

1+1=2

を解けるのはまだ『当然』ではないからだ。

しかし、小学2年生になった瞬間、それは『当然』と認識される。

『当然』なのだから、

1+1=2

が出来たからと言って褒める人間はいないだろう。

また当人も、そんなことで褒められてもうれしくない。

その当人も『当然』という認識に変わるからだ。

このように、『当然』に変わってしまうとその知識、行為は何とも思われなくなってしまう。

何とも思わないものに、人は感謝をするだろうか?

まず間違いなく感謝などしない。

『当然』に感謝する人はしない。

『当然』が増えると、感謝する事柄は減っていくのだ。

・挨拶するのは当然

・サービスを受けるのは当然

・道を譲ってもらうのは当然

・手伝ってもらうのは当然

・困っていたら手を差し伸べられるのは当然

このように日常の事柄をすべて『当然』という認識でいれば、感謝などしなくてもよい。

逆に、これらを『当然』と認識しなければ、すべて感謝の対象となりうるのだ。

『当然』と思い込んで感謝などしないとするのか。

『当然』などない、すべてが感謝であるとするのか。

それはあなた自身が決めることだ。

④『当然』と思うことのデメリット

では『当然』と思うことのデメリットとは何か。

結論を言えば、人間関係への不和をもたらす。

一例として、相手が何かに困っていたとする。

あなたはその困っていたことを一緒に解決してあげた。

けれど、相手にとって『自分が困っていたら誰かが一緒に解決するのは当然』という認識ならどうなるだろう?

相手にとってあなたが一緒に解決してあげたことは『当然』であり、何かの対象になることはない。

つまり感謝されないのだ。

さて、ここであなたの心情はどうなるだろう?

あなたの貴重な時間を使い、一緒に解決してあげたのにそのことに何も言われなかった。

あなたは、またその人が困っていた時、助けてあげたくなるだろうか?

おそらく回数を重ねるごとに助けようとする人は減るだろう。

また別の例として、あなたには特別な技術があるが、それをあなたは『当然』だと思っている。

あなたが誰かに何かを教えようとして、その特別な技術を前提として教える時。

相手にはその特別な技術が無い。

にもかかわらず、あなたの『当然』という認識がその特別な技術があること前提で教えられれば相手はどうなるか?

相手にとっては、その技術が無い以上、できるものではないのだ。

まずここで齟齬が生まれる。

また、あなたにとっても、自分にとって『当然』の技術を相手が持っていないことに不満を持つ。

「そんなことも知らないのか」と悪態の一つもつきたくなるだろう。

その瞬間、あなたと相手との信頼関係は崩れる。

あなたの『当然』を、相手に押し付けるとこうなる。

『当然』という思い込みは、相手も同じことを『当然』と思っているなら問題はないだろう。

手伝いをしたあなたに『 自分が困っていたら誰かが一緒に解決するのは当然 』という認識があり、感謝などされなくてもいいのであれば、それでもいい。

あなたにある特殊な技術を、相手も『当然』だと持っている技術なら問題ないだろう。

だが、そんなことは稀でしかない。

『当然』であることにはデメリットが多く含まれるのだ。

⑤当然と思うことのメリット

では『当然』と思うことにメリットは無いのか?

もちろんメリットはある。

というより、それは先に述べた人間関係において、ある程度は前提として必要なものだからだ。

『当然』という認識が全くないとどうなるか?

仮に

『1+1=2』

を『当然』と思わない人間がいたら?

極端な例ではあるが、それはもはやコミュニケーションが取れないと言っても過言ではないだろう。

言葉の意味、技術、知識……人と人とのコミュニケーションは、そういった『当然』を前提するからこそ、スムーズに行われる。

一切の『当然』を否定すれば、相手を全くの無知な人間扱いすることになるのだ。

『1+1=2』も知らない…こんな状態で一体何を話せるのか?

もちろん相手側も、『1+1=2』すら知らないと思われることに不快感を覚える人間は少なくないだろう。

このように、一切の『当然』を否定するつもりはない。

ある程度の『当然』は必要なのだ。

⑥『当然』と思わないことのメリット

では『当然』と思わないことのメリットは何か?

そのメリットの大半は、自分が何かをされたときに感じれるだろう。

自分が何かをしてもらったとき、それを『当然』と思うか、そうでないか。

『当然』ではなく、『有り難い』ことと認識する。

すなわち『感謝』が生まれるのだ。

先に述べたように、『当然』と思うことは『感謝』と遠い。

つまりは、逆に『当然』と思わなければそれすべて『感謝』できることになるのだ。

・挨拶されるのは有難いこと

・サービスを受けるのは有り難いこと

・道を譲ってもらうのは有り難いこと

・手伝ってもらうのは有り難いこと

・困っていたら手を差し伸べられるのは有り難いこと

『当然』とは思い込み、認識であると言った。

『当然』と思い込むか、『有り難いこと』と思い込むか、それらの選択はあなた次第だ。

他人が強制することではないが、願わくばあなたにとって幸福となるような選択をしていただきたい。

⑦まとめ

ここまで『当然』について述べてきた。

『当然』とは避け事である。

だが、一切合切避けてよいというものではない。

コミュニケーションを円滑に行う上で必要な『当然』はもちろんある。

だが、すべてを『当然』にしてしまえば、それはそれで問題は大きい。

何が『当然』で、何が『有り難い』ことか、それをはっきり定義することはできない。

けれど、ほんの少し『当然』と思う基準、特に自分がされて『当然』とする基準を下げると、途端に世界は『有り難い』ことに満ちていると気づけるはずだ。

あなたの人生に、幸あらんことを、願う。

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