人生の避け事~他人の目~

『他人の目』は避け事である。

他人の目というものは、大概において自らを縛り付ける鎖となる。

他人の目を気にして動けない、とはよく言ったものである。

他人からどう見られているか。

人は常々それを気にしている。

自分の言動が、他人の目にどう映っているかが気になる。

悪い事、よくない事、気に入らない事として見られていないか。

それを気にするあまり、人は『自分』を出せなくなる。

だが、一度立ち止まって考えてほしい。

あなたはまるで、

他人が四六時中自分を監視している

そう思っていないか?

そう思うなら、それを自分に当てはめてみるといい。

あなたは四六時中他人を監視しているか?

他人を、何か悪い事、よくない事、気に入らない事をしていないか、監視しているか?

していないはずだ。

あなたは他人を常にそんな風に見ていない。

たまに、意識する程度だ。

他人の姿が目に映っても、その他人は背景に過ぎない。

何をしているか、意識もしていない。

それが現実だ。

他人は、あなたが思うほど自分を意識していない。

あなたが他人を意識していないように、他人もあなたを意識していないのだ。

では何故『他人の目』は気になってしまうのか?

それは思い込みがそうさせているのである。

『他人は自分を見ている』という思い込みが、気にさせている。

そんな事実は無いのに。

では一体どこからそんな思い込みは生まれたのか?

人は、『善』よりも『悪』を重んじる。

100の『善』を積み重ねた人間が、たった1の『悪』を犯したとき、あなたはその人間をどう評価するか…

「あんなにいい人だったのにあんなことするなんて…」

こんなところだろうか。

つまり、

100の善 < 1の悪

という図式が成り立つ。

人は、悪を殊更大きくする。

悪は、一切の善を駆逐する。

その悪に対する恐怖心。

それが、『他人の目』に悪と映ることの恐怖へとつながる。

あなたは過去、他人から見られて『悪』と判断されたことがないだろうか?

それは、その他人がたまたまその瞬間だけを見て判断したことにすぎない。

1時間の中で、わずか数秒あなたを見たときに気付いただけだ。

しかし、あなたにはそれだけで、見られているという恐怖が生まれた。

相手はわずか数秒しか見ていないのに、あなたは他の時間、59分50秒以上見られていると感じてしまう。

誰も見ていない 59分50秒以上 を、見られていると思い込んでいるのだ。

だがそんな事実は無い。

あなたが他人を監視していないように、

他人もあなたを監視していない。

そして、相手が見るあなたは、ほんのわずか数秒でしかない。

その数秒で、まるであなたを悪人かのように仕立てあげられる。

それでいいのか?

他の 59分50秒以上 を見てもいないのに、それでいいのか?

否だ。

つまるところ、『他人の目』というのはその程度のものだ。

他人の目、そのものは確かに存在する。

だが、他人の目とは取るに足らぬものである。

しかし、他人の目以上に問題なのは『思い込み』だ。

存在しない時間にまで他人の目を作り上げた思い込み。

その思い込みを消し去ろう。

あなたは、周囲にいる人間の言動全てを監視などしていない。

それを他人にも当てはめればいいのだ。

あなたがふとした瞬間にしか他人を見ないように。

他人もふとした瞬間しかあなたを見ない。

それに気づければ、あなたは『他人の目』を気にせず生きることができる。

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