避け事~プレッシャー~

 プレッシャーとは避けるものである。

 人は、プレッシャーを掛けられるとやる気が出る、動くという。では、何故人はプレッシャーを掛けられるとやる気が出るのか?プレッシャーを掛けらると人はどうなっているのか?

 プレッシャーというものを、人は、脳はどう認識しているのか。そのことを含めて解説していく。

 

プレッシャーとは死

 結論を言う。

 プレッシャーとはである。ここで言う死とは、死ぬことを直接言っているのではない。脳が死と認識しているということだ。

 脳は命の危機に瀕した際、その危機を回避するために身体を行動的に変える。アドレナリンを分泌し、血圧を上げすぐさま行動できるようにする。しかしながら、この現象は本来命の危機の際にのみ起こるものだ。

 例えば、遠くの肉食動物であるライオンを見つけたとする。こちらは丸腰。当然逃げるという選択しかない。だが、恐怖の対象であるライオンを見つけたことにより、身体は恐怖と不安に苛まれ、動くことができなくなる。その状態を打破するために、脳は身体を動かせるようにする。そのための機構がそれだ。

 では何故普段からそうしないのか?それは身体への負担が大きいからだ。分かりやすいのが火事場の馬鹿力だ。あれは通常30%しか使っていない筋肉を100%近く使うというもの。だが、100%使うことは筋肉自体が破壊されかねない危険なものだ。だから、普段は制限している。

 

 つまりプレッシャーとは、死の危険を当てることで身体を活動的に変えて負荷を増し、無理やり行動させている状態だ。なのでプレッシャーを与え続けるというのは、常に体に負荷をかけるということであり、身体にとってよくないことは明白だ。

 

何故プレッシャーを死と認識するのか?

 では、何故人はプレッシャーを死と認識するのか?

 そもそも、プレッシャーを感じるというのは不安を感じるということだ。会社で言えば、納期を守らなくてはいけない・成果を出さなくてはいけない・成功しなくてはいけないというプレッシャーは、見方を変えれば不安ともとれる。納期を守れないかもしれないという不安、成果を出せない不安、失敗する不安。

 プレッシャーをかけるということは、相手に不安を感じさせる行為なのだ。

 そして、不安という感情は何故起きるようになったのか?それが、死を避けるためだ。

 そもそも、生物において不安を感じる理由は一つしかない。死だ。死ぬかもしれないという起源が、不安を作る。明日の食べ物が無い、肉食獣が近くにいるというように、死に直結する事柄に対してしか人の祖先は不安を感じる要素が無かった。少なくとも、現代のように納期に間に合わないかもしれないという不安を抱えた祖先はいないはずだ。

  だから、プレッシャーとは死と繋がるということだ。

 

プレッシャーで人は死ぬ

 そして、残念ながら人はプレッシャーで死ぬ。よく耳にするようになってしまった過労死とは、そういうものだと私は思っている。納期・成果・成功というプレッシャーという名の死の不安を与え続ければ、死以外に道は無いと感じるしかない。

 目の前でライオンが口を開けて涎を垂らす光景を前に、「生きる!」と思える人はいるだろうか?諦め、そのまま死を受け入れる人が少ない無いと思う。

 よく聞くのは、過労死をした人に対し「会社を辞めればいいのに」と、他の道があったのではないかという意見もある。だが、ライオンが口を開けた光景を前に逃げる以外の選択肢、例えば代わりの肉を差し出す、口につっかえ棒をする等の別の選択肢を出すことができるか?できないと思う。

 人は死の恐怖を前に、生きるために行動的になる。だがそれは同時に視野を狭める行為だ。死という結果を避けるため、生きること以外に余計なエネルギーを使わないようにするため、それ以外のことを考えない。それは一見合理的なようで、現代においては適切ではない。

 過労死をしてしまった人とは、例えば目の前の危機とは納期を守らなくてはいけないという一点に集中してしまっているのだ。それは視野が狭まっているから。だから、納期を守るという行動以外の行動はまったくもって思考の外でしかない。思いつくことすらできない。納期を守らなくてもいいとか、そもそも会社を辞めるという選択肢が思いつかない。

 そうして度重なるプレッシャーに耐えきれなくなり、人は死を選ぶ、いいや死を受け入れるのだ。何度も何度も目の前でライオンが口を開ける光景を見続ければ、いつ頭をかみ砕かれるのかというプレッシャーを人は受け入れるしかない。生きることを諦め、かみ砕かれるのを待つだけになる。

 

人にプレッシャーをかけるということ

 プレッシャーとは死であり、プレッシャーによって人は死ぬと解説してきた。だからこそ私は、人にプレッシャーをかけることがどういうことなのかを、もう一度考えてもらいたいと思っている。

 そもそも、プレッシャーをかける側とかけられる側ではその重さが釣り合っていないと思う。「そんなにプレッシャーを感じてるとは思わなかった」というかけた側の意見は少なくない。プレッシャーをかけた側にプレッシャーとは何なのかを、知ってもらいたい。

 私としては、プレッシャーをかけるということは銃口を突き付けていることと大差ないと思う。他人にプレッシャーをかけるなら、そのくらいの気持ちでいてほしい。

 

プレッシャーは不要か?

 ここまで、プレッシャーというものがどんなものかを解説してきた。これでは、プレッシャーとは無い方がいいのでは、と思う方もいるだろう。だが、必ずしもそうとは言えない。

 過剰なプレッシャーは間違いなく毒だ。だが、全くプレッシャーが無いとはどういうことなのかを、考えてみてもらいたい。

 プレッシャーが無いとは、不安が無いということだ。不安が無い生活とはどういうものなのかを想像してもらいたい。

 私の想像では、何の気力も無い生活だ。生きていくための不安が何もない。何もする必要が無い。不安を感じないのだから、何かをする必要が無いのだ。そこには、無気力な自分がいるだけの空間が見えた。

 プレッシャーは、生きるという行為を呼び起こす一種の起爆剤だと私は思う。適度なプレッシャーは、「自分は今生きている」ということを実感させてくれるはずだ。しかし、起爆剤と言ったように、過度なプレッシャーは連続して起爆し続けるようなものだ。それは害にしかならない。あくまでも、適度、である。

 

最後に

 今回はプレッシャーについて、私の考えを述べてみた。

 プレッシャーとは死であるとする私の考えは過激だろう。だが、プレッシャーにより人の死が起きていることも事実だ。だからこそ、プレッシャーをかける側、そしてかけられる側には、プレッシャーというものについてよく考えてもらいたい。

 なんでもプレッシャーにして感じるのは害だし、何もプレッシャーに感じないのもまた毒だ。

 過度なプレッシャーは避け、適度なプレッシャーを味わい、生きていく糧にしてほしい。

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ABOUT US

せい
初めてできた彼女に振られたショックから立ち直った際に人生は失敗の連続と悟り、色々なことに挑戦していく。 現在、資産形成から副業としてアフィリエイトブログを立ち上げる。他に株式投資や、趣味の執筆活動も行っている。