今回はデスクトップパソコンを手放すまでの経緯と、その変化について語ろう。
そしてこれは、『変わらないまま』でいることへの怯えが消えたことでもあった。
部屋の変化
手放す前は、矢印の位置にデスクトップパソコンを置いていた。
手放した後↓
具体的に手放したのは
・デスクトップパソコンの本体
・モニター
・キーボード
・それらを載せてたテーブル
これが消えた部屋はずいぶんとすっきりした。
デスクトップパソコンにこだわっていた理由
私にとってデスクトップパソコンは、一般人でいうテレビに相当するものであり、動画を見たりゲームをしたりと『娯楽』のための必需品だった。
また、私はスペックで、デスクトップ>ノート という概念があり、わざわざ高い金を出して低スペックの方を購入するという意味が分からなかった。
また、サイズも圧倒的にデスクトップパソコンのほうが画面が大きい。
私がこれまで買っていたモニターサイズは小さくても21型。
今回手放したのは23.8型だ。
いずれもノートではありえないサイズ。
その大画面に長年酔いしれていた。
動画を見るにも、ゲームをするにも大画面の方がいい。
パソコンはデスクトップ以外ありえない。
それが長年の私のスタイルだった。
デスクトップパソコンを手放すきっかけ
正直、デスクトップパソコンを手放すとは、わずか二か月前ですら思いもしなかったことだ。
当然だ、なにせ15年近い凝り固まったライフスタイルを、そう簡単に変えれるわけがない。
とはいえ、変えるきっかけがところどころにあったのは事実。
そのきっかけを振り返る。
①副業への意識
まずは副業を始めようと思ったこと。
どんな副業を始めようかと考えたのは去年の8月ごろ。
そして出した結論が、
「アフィリエイトブログ」
「小説家」
である。
どちらも文字書き。
スペックは必要ではない。
いや、スペックよりも必要なのは持ち運びではないか?
となれば次はどうするべきか。
それが次のきっかけとなる。
②ノートパソコンの購入
初…ではないが、ノートパソコンの購入である。
以前に中古のノートパソコンの購入をしたことがある。
その時の目的は、『旅行先での暇な時間の動画鑑賞』だった。
そのノートパソコンはすでに手放している。
さて、今回購入したノートパソコンは以下だ。
こだわったのは
- 重さ
- 駆動時間
だ。
実際のスペックはこちら
本体質量:約915g / バッテリ駆動時間:約24時間(JEITA 2.0)
軽さは偉大
1kg前後の重量などたかが知れているが軽い方がいいだろう。
そう思っていた。
全然違う。
実は、今はこれとは別のノートパソコンももっている。
そちらは1.3kgだ。
たった400gなのにまったく重量感が異なる。
倍違うかのように感じてしまう。
軽さは偉大だ。
せっかく持ち運びたくて選ぶノートパソコンなら、軽さを重視してもなんら困ることは無い。
いや、むしろ頻繁に持ち運ぶようになってから後悔してしまうかもしれない。
それほどまでに軽い。
今ではたまに家電量販店のノートパソコンコーナーに足を踏みいれると、まず最初にすることは『持つ』ことである。
持って重量感を確かめる。
買わないが。
でも、購入判断に重いか、軽いかというか価値観が完全に根付いてしまった。
バッテリーはとにかく長持ちがいい
次にバッテリーだ。
これは使い方によるから一概に言えないが、ネットにつながずオフラインでひたすら小説を書くだけなら、長持ちではないだろうか?
正確に調べてないし、外出先でオフラインで小説を書くなら余裕でもつ…という認識だ。
ネットにつなげば、もたない。
あたりまえだ。
とりあえずスペック上は長持ちの部類のはず。
さて、こうしてノートパソコンを購入したわけだが、この時点でもデスクトップパソコンを手放すという考えはなかった。
この時点でのデスクトップパソコンとノートパソコンは使い分けるという考えだったからだ。
デスクトップパソコン⇒娯楽
ノートパソコン⇒副業
というように目的に応じて使い分けてきた。
去年まではそうだった。
しかし、それがだんだんと崩れてきたのだ。
③動画視聴時間の減少
私はデスクトップパソコンを娯楽として利用していた。
その最たる利用法が動画視聴だ。
が、その動画視聴時間が減少してきたのだ。
その理由は二つ。
- 見たい動画が無くなってきた
- 動画を見ている無駄を省きたくなった
1.については、単純に飽きてきた、というところだ。
好んで見ていたのはゲーム配信や自己啓発、セミナー系。
しかし、徐々にそれらへの興味は薄れてきた。
動画を見るよりも動画を探す時間のほうが長くなってきたくらいだ。
そして2.。
そうしてデスクトップパソコンを起動し、動画を見る、探すという時間に無意味さを感じてきた。
その時間を別のことに…そう、こうしてブログを書くことや小説を書く時間に充てるようになってきた。
そうして、徐々にデスクトップパソコンの起動時間が減ってきた。
しかしこの時点ではまだ手放すまでには至らなかった。
ここで、また新たなきっかけが出てくる。
④Youtubeへの投稿
Youtubeに投稿するには動画編集は欠かせない。
しかしながら動画編集はパソコンに多大な負荷をかける。
その負荷と、必要スペックからどうしてもデスクトップパソコンは必要だった。
『娯楽』としての価値を失いつつも、『動画編集』のために必要だった。
しかし、私は元から動画編集をしていたわけではない。
Youtube初投稿は2020年が初だ。
それがこの記事だ。
しかしながら、これ以上投稿はしていない。
何故かと言えば、一言。
「楽しくない」
それだけだった。
動画を投稿するには、元になる動画を撮影する必要がある。
だが、その元動画を撮影中に感じてしまったのだ。
楽しくない、と。
動画のための行動、撮影のための行動、そう感じてしまった。
それは一気に動画投稿に対する拒否感になった。
私は、動画撮影の為に揃えた機材を、あっけなく手放した。
何の後悔もない。
こうして、デスクトップパソコンは『娯楽』としての価値も、『動画編集』としての価値もなくなってしまった。
⑤ライフスタイルの変化
そしてここでとどめとなる変化だ。
私はどのタイミングで動画視聴していたかと言えば、以下になる。
①食事中
②暇なとき
まず、①食事中の動画視聴をやめた。
理由はこれだ。
漫然とモノを口に運ぶな by バキ
「なんだ、漫画のセリフか…」
そう思うことなかれ。
実際、食事中に食事に集中すること…今何を口にしたのか、その食べ物はどこからきたのか…等を考えて口にすることは、IQを上げる行為とする本もある(どの本だったかは忘れた)。
それを実践し始めた。
なので、①食事中の動画視聴は無くなった。
実際、見たいものが減ってきていたこの時期、いざ食事!と思っても観たい動画が無くて探し続け、いつの間にか10分…なんてこともざらにあった。
そして②暇なとき。
以前は暇なら動画。
しかし今は、暇なら読書or内観のどちらかだ。
動画を見るよりもずっと有意義な時間となっている。
こうしたライフスタイルの変化がとどめとなり、
『もうデスクトップパソコンは要らないな…』
そう何気なく思えてしまった。
(ちなみにゲーム利用と書いていたが、実際ゲームはもう2019年の時点ですっぱりやめてしまっている。
ゲームをすることに楽しさは一切感じなくなっていた。)
こうしてデスクトップパソコン不要という結論に至り、手放すこととなった。
デスクトップパソコンを手放したことによる変化
ではここからは、実際に手放したことでどんな変化が起きたかを述べていく。
①何も変化がない
『え、何言ってるの?』
と思われるかもしれない。
しかし、これはある意味驚きの変化だった。
あれほど私のライフスタイルにおいて重要だったデスクトップパソコン。
それを手放したというのに…
私のライフスタイルには変化がない
そう、もう私のライフスタイルにはデスクトップパソコンはとうに不要だったのだ。
いくら使わなくなったとはいえ、まだ使えるし…と葛藤はあった。
デスクトップパソコンは壊れたわけではない。
ただ、私にとっては不要…という判断だった。
しかし、だからといって易々と手放せるものでもない。
手放してから後悔するんじゃないか。
そんな思いがあった。
しかしどうだ。
実際に手放してから、そんな後悔はどこにもない。
無くなったことによる変化が何もないのだ。
あれができない、これができない、と感じることもない。
どこにも必要性を感じない。
それほど、私のライフスタイルは変化していたのだ。
②部屋で執筆作業ができるようになった
実は私は、部屋で小説を書くことができなかった。
どうしても集中力が途切れてしまう。
だから、小説を書くためには『外』に行かなければならなかった。
カフェ、公共施設等…とにかく『外』であることが書く条件になっていた。
しかし今はどうだ。
何気なくアプリを起動し、小説を書いているではないか。
ただ物が無くなっただけなのにこの変化。
これは、徐々に使わなくなっていたとはいえ、やはり存在そのものが『娯楽品』としてデスクトップパソコンが根付いていたからなのだろうか。
遊びの無い空間。
小説は実態あるものを書くのではなく、頭の中の空想を書く。
その空想に浸るために、デスクトップパソコンは邪魔だったのかもしれない。
③部屋がスッキリ
当たり前の変化だ。
物が無くなった分、部屋はスッキリした。
デスクトップパソコンはその都合上、どうしても本体とモニターで最低コンセントを二口必要とする。
そのケーブルも太いから、どうしてもケーブルが目立つ。
これも消えた。
また私は、パソコン本体を床に直置きするのは嫌だった。
埃がたまりやすいし、掃除しづらいからだ。
だから常にミニサイズのテーブルに載せていた。
そのテーブルも手放した。
その場所にはもう何もない。
そこに置きたいものも無く、今ではそのまま空間になっている。
これがいい、と感じている。
生活の余白。
④息抜きの不要さ
デスクトップパソコンは娯楽の象徴だった。
もちろん、手放したとはいえ手元にはノートパソコンがある。
画面サイズが小さくても同じ事はできるのだ。
動画も観れるし、ゲームだってやろうとおもえばできる。
でもやっていない。
『息抜き』をやめた自分がいた。
それを実感した。
ゲームもしないし、娯楽の動画鑑賞もしていない。
こうしてブログを書くことも、小説を書くことも、すべてが充実している。
それ自体が楽しい。
だから、気を抜く必要が全くない。
もちろんそういったことを連続してやること自体には集中力の途切れもあるが、その代わりは読書だ。
もちろん漫画じゃない。
今主に読んでいるのは投資や金融、お金の本だ。
世間一般で言う、『息抜き』が全く不要になっていた。
テレビも、動画も、ゲームもしない。
けれど何も不満が無い。
そこまで私は副業にのめり込んでいる。
ある意味では、副業=娯楽なのかもしれない。
まとめ
以上、私がデスクトップパソコンを手放すきっかけから、手放してからの変化をまとめてみた。
デスクトップパソコンはとても重要なものだった。
10年前どころか、去年までですら、デスクトップパソコン無しの生活など考えられなかった。
こんなにも簡単に変わってしまうのだなと、痛感している。
だがそれは悪い変化ではない。
こうして変わることは普通のこと。
変わらないままでいることに怯えなくてもいい。
そう思った。
私はどこかで、このままデスクトップパソコンを手放せない、パソコンにかじりついたままの生活になることに怯えていたのかもしれない。
もうここから抜け出せない自分に諦めていた。
そんなことは無かった。
私は抜け出した。
人は変われる。
変われないと嘆くことは無い。
今変われる兆しはなくとも、いつか自然とその兆しはやってくる。
さらに言うと実は私、重度の美少女ゲームオタクだった。
月の購入費用は3~4万円。
店舗特典狙うで複数買いまでやっていた。
月末の週末はゲーム発売日だから、仕事帰りに遠くのゲームショップに通いつめたものだ。
40歳まではずっと美少女ゲームをやり続けるのだろう…そう思っていた。
私は今31歳だが、25歳の時点でとうにやめている。
今思うと、全然続かなかった。
そんなものだ。
『このままなんだ…』と諦めていたものがこんなにも簡単に変わる。
もし、あなたにとって、何かやめたいけどやめれない…そう思うものがあったとしても、諦めることはない。
やめられる時はきっとくる。
悲観せず、むしろ今はそれを思いっきり楽しんでおけばいい。
ふと振り返ったとき、それはいつの間にか消えているのだから。
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