[雑記]『男子厨房に入るべからず』の本当の意味

男子厨房に入るべからず。

昭和の時代にはよく聞かれた言葉のようです。今では滅多に聞かないどころか、差別的な言葉と捉えられてもおかしくない言葉ですね。

女性に料理を押し付けるような言葉ですが、最近その言葉の真意…本当の意味を学んだので、紹介させていただきます。

『男子厨房に入るべからず』この言葉には、女性に料理を押し付けるような意味はなく、むしろ女性の立場に配慮したものであるという意味合いがあるようです。

これは料理研究家土井善晴先生が著書で語っていた内容なのですが、土井先生は料理研究家でありながら、家庭では一切料理をしないそうです。それは、自分が料理をすれば、妻よりもおいしくできる。だからこそ、妻の立場が無くなってしまう。その配慮から家庭では台所には立たないようにしているとのことです。

これは、現代的な視点から言えばまったくもって無用な配慮と言えるでしょう。今は男性であろうと女性であろうと、できるほうが料理をすればいいという価値観が広まりつつあります。そんな中で、料理が女性の立場を守ることに繋がるというのはピンとこないでしょう。

せい

ぼくは独身一人暮らしなので、「男子厨房に入るべからず」と言われてもどうしようもないですね(笑)

ここからはぼくの解釈になりますが、昭和、あるいはそれより昔の時代の価値観で見れば、納得もできます。今でこそ女性の社会進出が進み、女性の社会的立場は向上しました。しかし、昭和より昔であれば、外に一切立場が無い女性は珍しくないどころか、それが当たり前でした。妻は夫の付属品扱い。

その上で家庭での立場すら無くては、女性の自尊心は地に落ちる。そのため、家庭…それも生きる上でのカギを握る台所は女性の聖域とし、女性にも家庭内での立場を与える・保持するために『男子厨房に入るべからず』という掟が生まれたのだと思います。

この掟のようなものが、男性側からの配慮で生まれたのか、それとも家庭内での立場だけでも守ろうとした女性側が言い出したことなのか、どちらなのかはわかりません。調べればわかるかと思いますが、正直ぼくはどちらでもいいです。

この言葉の本当の意味からぼくが学んだのは、能力の有無だけで判別されない、ある意味では優しい配慮があったということです。

『男子厨房に入るべからず』は、今では女性冷遇とも受け取られかねませんが、一方では女性優遇ともいえます。女性というだけで台所の支配権を握れるわけですから。そして男性は、男性というだけで台所に立つことが許されない。自分の食を自分でどうにかできず、女性に委ねなければならない。

料理が苦手な女性からすれば大変なことでもあると思います。しかし、苦手であってもその権利を奪われることが無いともいえる。これもまた、優しい世界の在り方と見ることができるでしょう。

現代は能力主義となり、能力がある人にとっては自由ですが、一方で能力が無いあるいは適切な場で活かせていない人にとっては、地獄の社会です。何の能力があるか分からないのに、「君にはきっと他の会社で活かせる能力がある」などと体よく追い出される。強者には都合がいいですが、弱者には不平等でしかありません。

昔は『会社は家族』ともいいました。これは、例え従業員が何の能力も無い無能だったとしても、一度従業員として雇った以上その面倒を見なければならないという覚悟の言葉だったのではないかと思います。今ではすっかり言葉の意味は変わっていますが。

窓際族、お茶くみ係…今ではとんと聞かなくなりましたが、こういった仕事もまた家族だからこそ、相手の面倒を見る覚悟で辞めさせず、なんとか仕事を与えようとした名残だと思います。誰でもできるような仕事を、能力が無い人に与えて雇用を続ける。給料をもらえるようにする。その配慮が、昔にはあったのではないでしょうか。

これはぼくの個人的な意見ですが、今の時代にお茶くみのような仕事があれば、それをこなせる人はかなりの能力者だと思います。お茶の無くなったタイミング、飲める温度、好みの濃さ、気温に応じて温冷の使い分け…そういった細かい配慮が無ければお茶くみはできません。今の時代、ペットボトルで済ませることも可能ですが、それをあえて自分で濃度や温度を調整して淹れることができる。たかがお茶くみ、されどお茶くみだとぼくは思います。

もちろん、だからといってじゃあ現代にその考えを復活させるべきかというと、そう簡単には言えません。会社を辞めた・辞めさせられたことで自分の能力に気付いた、新たな道に進むことができた人もいます。何らかの能力があるのに、お茶くみ係として縛り付けられてしまったこともあるでしょう。

「昔のほうが良かった」などとは、そう簡単に結論付けることはできません。

今ではすっかり死語となった『男子厨房に入るべからず』。言葉の意味そのものは現代には通用せずとも、その言葉が生まれる背景には他者への配慮を忘れない心があったのではないか。人を能力で見るようになって、人そのものを見なくなった。そんな悲しさが現代にはあるように感じます。

それではまた。

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