[考察]すべてを捨ててほしい物を手に入れた男~DQ7のキーファは本当に屑か?~

記事の要約
  • 望むものは捨てた先にしかない
  • 過去を捨てなければ、新たな未来はない

ドラゴンクエスト7のネタバレを含みます

今回は、ドラクエ史上最も屑と噂されるドラクエ7のキーファの生き様について考察していきます。

考察する理由は、キーファが行ったことはミニマリズムの観点から言えば最も理にかなっているからです。そしてぼくの個人的意見からすれば、キーファの行ったことはそんなに非難されるものではないと思っています。

せい

ネットでレビューを見て、ようやくキーファが非難されているのを知ったくらいです。

さらに言えば、キーファの生き方は、常に何かに縛られ身動きがしづらい現代人にとって強烈な風刺としての意味合いもあると思います。だからこそ非難されるものでもあると。

この記事では以下の順に考察していきます。

  • キーファのこれまでの人生
  • キーファが望んだもの
  • 歴史上存在するキーファ以上の愚者
  • 捨てずして得られるものは無いという風刺

ではまず、キーファについて軽くおさらいしていきます。

キーファのこれまでの人生

キーファはエスタード島にあるグランエスタードという国の王子。
国王である父に、妹が一人。母親はすでに亡くなっています。

次代の国王として、父に厳しくその行動を制限させられ、それに反発するように彼は何度も城を抜け出し、島のあちこちを探検していきます。

そしてついに彼は遺跡へとたどり着き、そこで数々の謎解きを主人公と協力して解いていき、この世界の秘密を知ってしまう…

石板によって島々や大陸を封印から解放していくなか、キーファはユバール族のライラと出逢い、恋に落ちます。彼は、王子としての地位や次代の国王としての責務、家族やここまで冒険してきた仲間の全てを捨て、ライラと生きることを決意。パーティーを離れます。

この彼の身勝手とも言える行動が、プレイヤーの間では非難轟々。

…しかし、キーファの行動はただの身勝手なのでしょうか?

キーファは生まれながらに王となることが決まっていました。生まれた瞬間に未来がもう決まっていたのです。選択の余地はなく、その縛られた人生に彼は何度も父である国王と激突します。

そんな人生が、彼にとってどれほどの苦行であったか。身分などとうに死語となった現代で、彼の苦しみを理解できる人間は一握りでしょう。ぼくにはわかりません。

キーファが望んだもの

キーファが望んだものは何だったのか。間違いなくそれは『自由』です。
何物にも縛られず、自分の行動は自分で決める。そんな自由が彼の求めるものでした。

彼のこれまでがその真逆であったからこそ、自由を求める気持ちは人一倍強いことでしょう。

では彼が求める自由を得るためにはどうしたらいいのか。

彼の選択は、過去を含む一切を捨てることでした。

そうでもしなければ、自由など得ることはできなかった。少なくとも、仲良く話し合ってよりよい解決策を見出す…などという選択肢は、彼には無かったのでしょう。

父王との幾たびの衝突は、彼から話し合いで解決することは不可能であるという諦めに至っていたのです。父王はキーファがどうしたいのかという気持ちに理解を示さず、ただただ役目を押し付けた。

その結果、キーファは別れの言葉を交わすことなく姿を消した。それに父王はショックを受けますが、ぼくからすれば当然の報いとも言えます。理解を拒絶された人間は、黙っていなくなるものです。

言葉とは、相手と理解し合うために必要なものです。なら、理解し合えない相手とは、言葉を交わす必要は無いのですから。

歴史上存在するキーファ以上の愚者

さて、キーファの行いを簡単に見てきましたが、実は歴史にはキーファよりもヒドイ行いをした人がいます。

それがお釈迦様です。

実はお釈迦様、とある国の王子でした。さらに結婚しており、妻のお腹にはこれから生まれてくる子供もいました。にもかかわらず、お釈迦様は出家しています。

つまりお釈迦様は、

  • 王子としての地位
  • 次代の国王としての責務
  • まだうまれてすらいないわが子

を捨てたのです。

やってることだけ見れば、キーファよりもずっとヒドイものです。しかし、結果的にはお釈迦様は悟りを開きます。結果だけ見れば偉人ですが、もし悟りを開けなかったらただの非人道的行為をしただけの畜生です。

せい

後に生まれた子どもは、出家してお釈迦さまの弟子となったそうです。そこには親子としての関係はなかったとされていますが、互いに血を分けた親子だったことはわかっていたようです。

捨てずして得られるものは無いという風刺

キーファにしろお釈迦様にしろ、何かを得るには何かを捨てなければならないというのが見て取れます。

それは、彼らが求めたものが今の延長上には無いということが分かっていたからでしょう。つまるところ、彼らが捨てたのは人との関係というより、過去といえるものだと思います。

王となる未来に自由はないと考えたキーファ。
王となる未来に悟りは無いと考えたお釈迦様。

過去の延長上にしか未来がないとすれば、過去を捨てることでしか新たな未来を描くことはできない。二人の生き様からは、そのようなメッセージが読み取れます。

それに対し、現代はどうでしょう?

何も捨てる事が出来ず、過去の延長上でしかない未来を生きるだけ。そんな自分に嫌気がさすからこそ、キーファのような過去を捨てて新たな未来を生きる人間を非難したがるのではないでしょうか?

過去という電車にしがみつきながら、その線路の行く先には文句を言う。それが現代人のように思います。

何かを捨てる。それは物であれ人であれ、その人にとっての過去を捨てることに繋がります。だからこそ、物を捨てるミニマリストには、新たな世界を生きているという実感を持っている人が多くいるのだと思います。

最後に

ミニマリストになったことで、ぼくは色々な物を捨て、人間関係も捨てました。その結果、今新たな未来を歩んでいます。そんな自分を見返すことで、キーファはどうしてあんな行動に出たのか、それが分かってきたように思います。

捨てなければ、得られるものなど何もない。

だから、同じようなことをしているミニマリストにもキーファと同様に非難もあるのでしょう。

キーファがそれまで抱えていたものを捨てることに、どれだけの覚悟と決断が要るのか、ぼくには想像できません。生まれてくるわが子すら見ずに出家したお釈迦様の覚悟は、どれほどのものだったでしょう。

以上、キーファの生き様の考察でした。

それではまた。

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