[雑記]自宅の火事より他人の火事を助ける(比喩)

今回は、自分に起きた災いよりも他人の災いのほうが体が動きやすいというお話です。

先日、一つの動画を観ていました。それが↓。

釧路湿原とは、北海道の誇る国立公園であり、豊かな自然と動物たちが暮らす楽園。その楽園にソーラーパネルが増え始めているというのです。

この動画を観たぼくが感じたのは、電気というものへの嫌悪でした。

ここまで自然をぶち壊しにしてまで、電気がなくてはならないものか?
自然が大事だとのたまっておきながら、実際にやっているのはこんなことか?

そう思うと、電気が無くては本当にダメか?と考えてしまいます。

もちろん、この記事を書くことも、ブログを作るためのサーバーも、全て電気ありきです。ですが、だからといって電気を作ることを正当化していいものではないでしょう。

ここまでして電気を作る必要があるのか?もっと電気を使うことを減らすべきではないか?

ぼくの普段の生活の中で、電気を必要最低限にしなくてはいけないと思いました。

釧路湿原の惨状の動画を観てそのように思ったわけですが、ここで自分に対して一つの疑念が浮かびました。

ぼくは福島県在住です。ですから、電気についての問題はもっと身近なところにあります。

そう、東京電力の福島原発。

あれもまた、電気を欲するがゆえに建てられ、そして事故が起きました。なら、あの事故の時にも同じ感情・考えが起きてもおかしくないはずです。

また最近では、福島県福島市で『ノーモア メガソーラー』という宣言をしています。

住んでいる地域、その身近な中にも今回の釧路湿原と同様の問題は起きており、同じ感情になってもいいはず。しかし、このような問題を確かに問題とは考えていても、じゃあ電気を使うことを減らそうという考えまでは浮かびませんでした。

ただ、原発を建てるのが悪い、メガソーラーを作るのが悪いと、どこか他人事のように考え、電気そのものについての考えはありませんでした。

しかし、今回の釧路湿原の惨状を前には、真っ先に電気の存在への不信感が浮かびました。

身近にある問題はどこか他人事に。
しかし遠く離れたところの問題には真剣に。
この違いは何なのかと疑問に思いました。

そこでふと思い出したのは、稲垣えみ子さんの『寂しい生活』でした。

稲垣さんは東北大地震の原発事故を境に、家電を無くすという挑戦を始めています。しかし、彼女は福島県に住んでいたわけではないです。直接的な被害は無い場所に住んでいました。なのに、原発事故から電気というものに疑問を覚え、使わない生活へとシフトしています。

それを思い出すと、人というのは問題が近すぎると被害者意識が強くなって具体的にどうするかといったアクションが取りづらい。むしろ、少し離れて対岸から見ているほうが、「じゃあどうするのか?」と考えて、動きやすいのではないかと思いました。

今回の釧路湿原のソーラーパネル問題でも、インタビューを受けた方はどこか他人事として仕方ないと受け止めているようでした。そのように見たのは、決してその方を否定したいわけではありません。ただ、問題が目の前で大きくなりすぎると、受け止めきれなくなって諦めてしまうのだと思います。

一方、動画で遠くから見ているぼくは、電気という存在に疑問を覚え、もっと減らすべきじゃないかと考え始める。まるで、原発事故を見て生活を変えた稲垣さんと同じ心境になっているんじゃないかと思いました。

直接被害を受けたわけではない立場のほうが、物事を客観的に見極め、どうするかといった動きをとりやすい。
逆に直接被害を受けてしまうと、被害者意識が強くなり、身動きが取れなくなる。

自宅の火事にはぼーぜんとしても、他人の火事には動ける。

物事というのは、ほどほどに距離を置いて見ることが大事だなと思いました。

とりあえず電気を減らす試みとして、パソコンの起動時間を半分にしていこうと思っています。

それではまた。

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