[雑記]無能で良かった

最近読んでいる本があります。それが『河合隼雄の「幸福論」』という本です。

河合隼雄先生とは心理学者であり、ユング派の第一人者という方です。京大教授や文化庁長官を務めました。

ユングとは、『嫌われる勇気』という本で知られるアドラーとは異なる心理学のアプローチをすすめた方、カール・グスタフ・ユングのことです。人の傾向として外向・内向という分類型を示した方でもあります。

色々な心理学の本を読む中で、アドラー心理学のような『今』を重視するよりも、ユングのような自分の過去や無意識・夢などに自分の原点があり、根本は過去にあるという捉え方のほうがしっくりきました。なので、そのユングの研究をされている河合隼雄先生の本をよく読んでいます。

ぼくの個人的な考えとしては、心が敏感で繊細な方はアドラー心理学よりもユングのほうが納得や理解をしやすいと思います。

本としても、内容がまるで近所のおじいちゃんがのんびり話してくれるような、とても穏やかなものです。

話を戻しますと、『河合隼雄の「幸福論」』を読んでいる中で、特に興味深い話があったのでそれを紹介させていただきます。紹介したいのは、『兄弟』と『木』というお話。

まず『木』のほうは、先生が東京でタクシーに乗ったとき、運転手がその道すがら見える木々について色々と先生に話しかける。先生は木が大好きで木の話を楽しんだという。そのなかで、先生は荘子の「無用の用」という話を思い出します。

無用の用とは、現代語訳で「役立たずと思われていたものが、思わぬ役に立ったこと」という意味です。しかし、荘子の話の内容はそれとは少し異なります。

簡単に紹介すると、大工の 石 は巨大な 櫟 が神木として祭られているのを見るがまったく無視してしまう。この木は舟をつくれば沈むし、柱にすれば虫に食われるという具合で、まったく無用の大木であることを知っていたからである。ところが、石の夢にこの櫟の大木が現われ、次のように語った。

「有用」な木は、果実のためにもぎとられて枝を折られたり、切り倒して何かに使われたりで、天寿を全うできない。結局は、自ら長所と思うところによって自分の命を縮めている。

これに対して、自分は無用であろうとつとめてきた。無用なために自分を求める人もないし、自分はおかげで大木となっている。まさに大用をなしているのである。

引用元:河合隼雄の「幸福論」『木』より

ここでは、有用なものは有用であるせいで長生きできない。無用であるからこそクヌギの木は大きく成長できたというお話になっています。これは現代語訳としての無用の用とは少し受け取り方が変わってくると思います。

役に立つというと、他人にとってどうかと考えがちです、しかしクヌギの木のお話からすると、他人にとっては役立たずでも、自分にとって役に立つこともまた、無用の用であるということのようです。

このお話をぼくなりに解釈しますと、有用な人には人が集まり一見羨ましく見えるが、その人たちは有用な人から何かをむしりとろうとしているだけである。そのせいで有用な人ほど疲れ、追い込まれる。

しかし無用な人の周りには誰も集まらない。少し寂しいが、おかげで一人のびのびと成長できる。そして将来、大人物となることもある。

考えるのは、やたらめったらと自分を有能だとアピールすることが本当に自分のためになるのだろうか、ということです。仕事ができるせいで、あれやこれやと仕事を押し付けられて潰れる有能社員をイメージしてしまいました。

荘子は紀元前300年ごろの方。それから2300年と経っていますが、人の本質というものは全然変わっていないとしみじみ感じてしまいます。

近いことわざで言えば、「能ある鷹は爪を隠す」といいます。中途半端に有能であることをアピールすることは自分の寿命を縮めかねない。今はSNS全盛期で、如何に自分をアピールするかが時代の流れとなっていますが、本当にそれが自分のためになるのかは、改めて考えさせられます。

兄弟

もう一つは『兄弟』というタイトルのお話です。

内容を簡単に説明しますと、小さいころから優秀な兄と、勉強嫌いの弟がいました。両親は優秀な兄に期待して老後の自分たちの世話をしてもらおうと考えた。兄は期待に応えて一流大学に合格した。しかし、大学に進んだはいいものの、大学で何をしていいかさっぱり分からない。誰も教えてくれない。だんだんと不安になり、何度も留年することになった。

一方、勉強嫌いの弟のことを両親は気にも留めない。弟は高校卒業と同時に働き始めるが、一本立ちして起業。それが大当たりし、両親と自分の建てた家でともに暮らしている…というお話です。

この2つのお話は『兄弟』が先で『木』が後なのですが、『木』を読んだ後は思わずもう一度『兄弟』を読み直してしまいました。

兄は有用で、弟は無用。しかし、弟は無用であったおかげで自分のやりたいことを好きにやれる環境で育つ。そしてのちに大成することができた。人に当てはめる言葉としてはあまり適当ではないけれど、まさしくこの弟は無用の用であったと思います。

一方、兄は有用であったせいでのびのびと生きることができなかった。その結果、大きく成長することなく人生半ばで挫折してしまった。

そのようにぼくは読みました。

現代ではこの兄のような話をよく耳にします。大企業に就職できたのに、早々と退職し引きこもりになってしまった、ニートになってしまった。そういう話には必ず、両親の期待があります。

これは、他人を優秀であると見ることが、他人を潰してしまうことを示唆していると思います。子どもが少し優秀だったとしても、その才能に過剰な期待はしないこと。でなければ、その期待が子どもの将来を潰してしまうかもしれません。

子どもに限らず、他人を優秀かどうかで見ることは相手の将来を閉ざす可能性も。そればかりか、無能だと断じた相手が自分より高い地位になってしまうかもしれません。そう考えますと、他人をむやみに評価することは思わぬ跳ね返りを生むかもしれませんね。

『木』について話を戻しますが、ぼくは今の自分の状況はまさしく、このクヌギの木と同じであるように感じています。

今のぼくは人の役に立っていない無用な存在です。誰にも頼られず、寂しいし、このままで大丈夫かという不安もあります。

しかし視点を変えれば、ぼくの周りにはぼくから何かをむしり取ろうとする輩もいません。誰もいないからこそ、ぼくはのびのびと自分の好きなことができています。無用であるからこそ、今の自由がぼくにはある。人の役には立っていないけど、自分の役には立っている。そう思えてきました。

誰かに縛られることも、締め付けられることも無く、日々何か新しいことに挑戦することもできます。それもまた、誰も周りにいないからできること。

無能だからこそ、成長する環境が得られる。
他人が関わってこようとしないことが、自分にとって役立つ。
無能であると他人に言われようと、実は案外気にすることではないのかもしれませんね。

将来、自己紹介するときに「ぼくは無用の用です」と言えたら最高です。

それではまた。

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