[雑記]バレンタインデーで生まれる一体感

昨日はバレンタインデーでした。

最近はバレンタインを快く思わない人も増え、職場での義理チョコ禁止に喜ぶなど面倒なイベントというイメージになっているようです。

しかし一方で、企業側はどんどん白熱しており、チョコはどんどん高級品が売られ、しまいにはチョコ以外の食品をバレンタインのプレゼントとして推してくることも。

もちろんバレンタインデーを楽しんでいる人もいます。誰にあげるか、何をあげるか考えることが楽しい。手作りなら、どんなチョコにするかレシピを眺めたり、材料を買いに行く。実際に作る。ラッピングを考える。そういった諸々を楽しむ人たちもいます。

ぼくも今年は貰った側なので、ホワイトデーには何をお返しするか今から頭の隅っこで考え中です。お返しが面倒という意見もありますが、貰う数は少ないのでそう思ったことはありません。

結局のところ、こういったイベントは楽しんだもの勝ちと思ってます。勝ち負けで語ることに反発はあるでしょうけど、時にはそういうことも大事ではないかと。

昔は各地で神社などで開かれる縁日やお祭りが盛んでした。そういった地域のお祭りは、何かしらの祝い事や神事といった面もありますが、地域の一体感を生み出す…つまり、自分が何かしらのグループに属しているという安心感を与える。そういったメリットがあると指摘する本やら記事もあります。

その本(記事?)では、最近になって行われるようになったハロウィンイベントがそれに当たるとか。全国から見ず知らずの人同士が集まり、ハロウィンという一つのイベントにみんなが仮装をする。その一体感、みんなが同じ目的でここにいる。それは各地で行われていた祭りに代わるものとなっていると指摘しています。

バレンタインデーもまた、そういったチョコをあげる側貰う側として一体感を与え、人々のつながりを意識する大切な役割を果たしているのではないかと思います。もらえなかった人もまた、大切なバレンタインの参加者です。

ですから、ぼくの天の邪鬼視点で見ると、チョコをあげない・あげたくないという人たちも、あげない人たち同士での一体感を望んでいるように見えます。あえてそういう発信をすることで、自分だけじゃない・同じ人たちがいるという安心感につなげようとしています。

さらにいえば、チョコをあげないという行為もまた、バレンタインデーに参加しているともいえます。全くの無関心ではない。「あげない」と発信してバレンタインに参加しているとすれば、ある意味ではバレンタインの一体感を与えられているのではないかと思います

あげる人もあげない人も、一緒にバレンタインに参加している同士。そう思えば、あげないと言う人への見方も少し変わってきそうです。

人間は社会的な生物と言われ、何かしらの集団に属していることが心の安定につながります。ぼくもまた、SNSではミニマリストやブロガーの集団に属しており、そこから心の安定を得ています。

せっかくのみんなとの一体感を得られるバレンタインなどのイベント。完全にスルーしてしまうよりは、参加しないと発言するだけでもみんなと同じ立ち位置に立ち、集団に属している安心感を得てみるのもいいかなと思います。

それではまた。

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