[雑記]食べすぎは『食べたことを忘れる』から起きる?

今回の記事は、食べ過ぎが起きる原因として『食べたことを忘れる』からなのではないか?という考察記事です。

先日、1年以上続けてきた1日1食を、1日時々2食へと切り替えているという↓の記事を上げました。
[ミニマリスト]1日1食から時々2食へ調整中

この記事を上げてから、どうして食べる量を半分にしたのに満足できるのか?について考え続けてきました。

そこでふと思い出したのは、認知症の老人は食べたことを忘れてまた食べるということでした。

どうして認知症の老人は食べたのにまた食べたがるのかについて、詳しい根拠はここでは触れません。重要なのは、食事をしてお腹にもう食べ物が入っていても、忘れるだけで無かったことになってしまうという点です。

つまり、食事における満足感とは、お腹にどれだけ食べ物が入ったかではなく、食べたという記憶次第なのではということ。

なので、早食いや大食いのように一気に食べ物を胃に送り込んでも、食べたという記憶が伴っていないといくらでも食べてしまう。だから、食べ過ぎてしまうのではないかと考えました。

これは、食べている瞬間から食べたことを忘れているということです。そんなことは無いと言いたいところですが、しかし人間の記憶力…いや、認知機能というのはあまり信用できないところです。

服いっぱいのクローゼットを見て「服が無い」という人

ミニマリストで汚部屋経験者の中には、クローゼットにいっぱい服があるのに今日着ていく服が無い…という経験をされている方がいます。

ぼくも一時期、そのようなことがありました。しかし今は、このスカスカのクローゼットもどきを前に、服は十分あると感じています。

スカスカのクローゼットもどき

服があるのに服が無い。これは前述したところの、食べたのに食べていないという認知症の老人と同じことが起きているのではないかと考察しました。

クローゼットにいっぱいの服があっても、どんな服があるのか覚えていない。覚えていないということは記憶にないということであり、存在していないのと同じ。そこにあるけど、無い。それが、服を前にして服が無いと嘆く方に起きている状態だと考えます。

ですから、服屋に行けばどんどん新しい服を買ってきてしまいます。その人にとって、クローゼットいっぱいの服は存在していないのと同じであり、自分は服が無いという認識だから。だから、もう入れる余裕が無いのに、新しい服を買ってくるのだと思います。

これが認知機能が信用できないと思う点です。あるのに無いと嘆く。そういったことは認知症の老人に限らず、誰でも起こっているのではないでしょうか。

食べているのに食べたことを忘れる

先日、ちょっと試しにという気持ちも兼ねてラーメンを2玉食べました。

ラーメン2玉は1日時々2食の1食の倍の量になります。半分の量で満足できるのなら、その倍の量など食べ切れるはずがない…そう思うところですが、現実はそうでもありませんでした。

1日時々2食の1食分の量

2玉ペロリと完食。しかも、もうちょっと食べられるかもというくらいです。

同じくらいの量を食べた時点で満腹感を得てもう食べたくないと思うはず。そう思っていましたが、それを軽々と通り過ぎて完食しました。

そうやって自分の満腹感を観察すると、食べた量よりも食べたという記憶が満腹感に影響を与えているというように感じます。

ラーメンは柔らかくて麺なので、長々と口の中に入れておく必要がありません。しかも熱いから、口の中にいれてすぐ飲み込んでしまいます。口の中に留まっている時間が短いです。

一方、玄米菜食は玄米も漬物も硬く、よく噛む必要があります。その分、口の中に留まる時間は圧倒的に長い。

この口の中に留まっている時間(=噛んでいる時間)が、食べたという記憶に繋がるのではないかと思います。つまり、ラーメンのようなよく噛まなくてもいい食べ物は、食べたという実感や記憶が薄いので、すぐ忘れてしまう。だから、どんどん食べることができてしまうのではないでしょうか。

食べ過ぎないようにするためには、今自分が何を食べているのか、それをしっかりと記憶すること。そのために必要なのは、目の前の料理をただ胃の中に流し込むのではなく、しっかりと口の中で味・食感・香りを味わうこと。それが重要なのではないかと思いました。

それではまた。

食べすぎをやめて食費を抑えたい!と考える方には、自家製の漬物がオススメです。

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