[雑記]ぼくが主人でぼくが下僕

ミニマリストとして日々やるべきこと・やらなくていいことを減らし、そうして余った時間をどうしているかというと、どんどん手作業が増えていきました。
昨日のキエーロや、普段食べない物を食べられるようにすること、部屋のほうき掛けや水拭き、漬物づくりなど、自分の手で行うことが増えています。

そうした生活を送ることに日々充実感を覚えています。ですが、ふと思ったのです。どうして手作業ばかりで手間をわざわざ増やしているのに、前よりも充実感が高まっているのかと。

そこで思い出したのが、とある本の一節でした。
「自分は、自分の下僕であらねばならない」

他の誰でもない、ぼくがぼくの下僕としてあれこれやっている。他人任せ、あるいは機械任せにしていない。これが充実感の正体ではないかと思いました。

下僕は他人に奉仕することで満足感が得られます。ぼくはぼくに奉仕することで、満足感が生まれ、充実していると感じているのではないかと。

そしてその一方で、ぼくもまたぼくを従え、主人として振る舞っています。キエーロなど、やりたいと言い出すのが主人のぼくなら、それを実現するのは下僕のぼく。主人として他人が仕える喜びを、ぼく自身を下僕とすることで味わっています。

書いていて自分でも頭がこんがらがりそうなことになっていますが、そんな感じがします。
そして、この主従の関係はまさに理想的ではないかと思います。

それは、主人は決して従僕に無茶な命令をしないし、下僕もまた主人に逆らうことなく忠実に実行するということ。どちらもぼくだからこそ、相手を裏切らない信頼関係がそこにあることだと考えます。

これを他人に置き換えるとそうはいかない。主人側はときに無茶な要望を出すし、下僕側は素直に従ってくれない。互いが互いを信頼できない状態では、その主従関係は破綻していると言えるでしょう。そこには主従から生まれる満足感は得られません。

仮に主人たるぼくが無茶な命令を思いついたとしても、下僕のぼくにはできないことが分かります。だから、ぼくはその命令を出しません。仮に出しても、できないと下僕のぼくが伝えれば、主人たるぼくはその命令を取り下げます。それで主従の関係が壊れることは無い。

下僕たるぼくの「できない」を主人のぼくが信頼しているから。「できるはずなのにできないと言い訳している」などとは思わない。

自分で自分に仕える喜び。
自分で自分を従える喜び。

この二つの喜びを実感しているからこそ、毎日の充実感があるのではないかと思いました。

他人も機械も挟まない。そんな孤独で、アナログで、自分だけの独りよがりのような生活が、とても楽しい。

それではまた。

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