[雑記]無意味な乾拭きの意味

毎週水曜日と土曜日。その日は、床を掃き掃除だけでなく、水拭き・乾拭きまで行います。

この時期は水が冷たくて、水拭きは特に辛い。でも、我が家ではもうモップ等は手放したので、雑巾で水拭きするしかありません。ちょっとした修行のよう。

うちの湯沸かし器は屋外に設置されてるので、蛇口からお湯が出てくるまでは配管分のロスがあります。その水がもったいなくて、水で我慢。

さて、水拭きを終えたらその次は乾拭きをしています。この乾拭きに何か意味があるかというと、何も意味がありません。無意味に乾拭きしています。

そもそも乾拭きを始めたきっかけは、とある禅寺での修行の一部を書いた本を読んでからでした。

お寺の長い廊下を水拭きするには、何度も雑巾を濡らさなくてはならない。それが面倒で、雑巾をゆるく絞っただけで拭くようになった。そうなると廊下は水浸しのようになる。そんな掃除をずっと続けていたら、廊下が腐って釘が飛び出してしまい、水拭き中の手に突き刺さった…そんなエピソードでした。

これを読んでから、『床を濡れたままにしてはいけない』と思うようになり、水拭きのあとに乾拭きをするようになりました。しかし、前述のエピソードと違い、狭い我が家の床でそれに意味があるかというと、全くありません。

床が狭いから、何度も雑巾を濡らす必要はありません。しっかり絞って水拭きしても、2回も濡らせば拭き終わる。水拭き直後の床は表面はうっすら濡れていますが、数分もすれば乾いてしまいます。ですので、乾拭きは文字通り乾いた床を拭いているだけ。濡れたままにしてはいけないという意味合いは全くない。

それでもぼくは乾拭きを続けています。それは、『意味はない。けど、なんか意味がありそう』というなんとも不確かな直感からです。

それを1年ほど続けているところ、最近になってなんとなくぼくのこの行動を肯定するような俳句を見つけました。

それが↓の俳句です。

「浜までは 海女も簑着る 時雨かな」

海女さんは海に入るから、どうせ濡れる。だからといって、雨の中を傘を差さずに濡れてもいいということではない。どうせ~という考えを肯定せず、今と向き合う。

江戸時代の俳人、滝瓢水の作です。

俳句の詳しいエピソードについて興味がある方は↓を読んでみてください。
浜までは 海女も蓑着る 時雨かな ~滝瓢水の句におもう~

この俳句を知って、『どうせ乾くのだから今乾かす必要は無い』という考えは本当にそれでいいのか?と思いました。

『どうせ~~だから』と考えることは、物事を雑に捉えていて、真剣に向き合っているといえるのか。今を生きているといえるのか。

既に乾いた床を乾拭きする。行動の結果そのものには、何の違いもありません。けれど、そこに『どうせ』という気持ちがあれば、自分自身にとってはどうなるのか。

行動の結果だけに囚われず、その過程にも真剣に向き合うこと。無意味に思えた乾拭きにも、そんな意味があったんじゃないかと、ふと思いました。

それではまた。

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