ブロガーやポストをやっていますと、たまに「自分の記事がパクられた」「ポストを丸写しされた」とパクられたことを嘆く言葉を聞きます。
パクられるということは、他人から見るとそれだけ有用なものと見られている証拠と言えますが、パクられた当人は心穏やかではないようですね。
実際、ぼく自身も過去趣味で書いていた小説でパクられ疑惑が起きました。読者からのメッセージで教えてもらったのですが、確かに序盤の流れや登場人物の特徴がそのまま。パクった疑惑の作者からはパクっていないというメッセージが来ました。
まず、↑の件でのぼくの対応はこれ。
「あなた(パクった疑惑の作者)が決めてください」
ぼくはパクリ疑惑の作品に対し、削除しろともそのままでいいとも、どちらとも明言しませんでした。
パクったのかそうでないのか、一番分かるのは当人だからです。自分で決めればいい。ぼくは何も決めない。
結果的にはその作品は削除されました。理由は「ぼくがパクられたと思っているから」だそうです。正直、人のせいにして削除しているところに人間性がにじみ出ていて、一気に嫌になりました。
ぼくはパクリ行為について否定派です。しかしその否定の理由は、楽しくないからです。パクって作品を書いたところで、いったいどこが面白いのか、ぼくにはわかりません。
作品は作っている瞬間が一番楽しい。作品を世に出したあとの世間の反応は二の次です。パクるということは、この一番楽しい瞬間をドブに捨てる行為です。そんなことをわざわざやりたがる人の考えは理解できません。
儲かればいいのでしょうが、儲かったところでそんなつまらないことを続けられるのでしょうか?儲かるならつまらなくてもいいのでしょうか?
ブログやポストも同じです。パクったところで面白くありません。考えを生み出す瞬間、それが一番面白い。
もちろん完全オリジナル作品というのは難しく、誰しも他人の模倣になる点はあります。しかし、例えば小学生か幼稚園の頃に、ひたすら文字をなぞるドリルをやった経験はないでしょうか。楽しかったですか?ぼくは楽しいと思いませんでした。
たとえ下手でも、自分で書く。他人の字を見て書くことはあっても、なぞってきれいな字を書けたところで、そんなの楽しくも何ともありません。
自分が楽しいからこそ、ブログを書く、ポストでつぶやく。パクりはつまらない。それがぼくの行動理念です。
実業家のROLANDは著書「俺か、俺以外か。」でパクりについて言及しています。
パクリがどうこうって言うのは、才能が枯渇したと言っているようなもの。また新しいもの作ればよくない?
引用元:俺か、俺以外か。 ローランドという生き方
これには共感しました。パクられて怒るよりも、次の新しいものを生み出す。人間は安定するとすぐその場に落ち着いてしまうクセがありますから、パクられることで次のステージに進むきっかけになれば、それは結果的には良いことと言えるのではないでしょうか?
ぼくは過去の発言の焼き直しはあまり好きではありません。面白くないからです。想像の瞬間こそが、最も心躍る瞬間です。その瞬間も無く、ただ繰り返すだけの行為に面白さは感じません。
パクって面白いですか?人の作品をパクる人にはそう聞いてみたいです。
それではまた。
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