物欲は論破せよ!仏教に学ぶ物欲との付き合い方

どんな記事?

お釈迦さまの教えから、物欲とどのように付き合っていけばいいのかを紹介

せい

こんにちは。せい(@aodama_s)です。30代独身男性ミニマリストです。

物欲を無くして無駄な買い物をしないようになりたい…そう願いながら、なかなか物欲を無くすことができないと悩む人は多いです。

物欲の無くし方というメソッドは数あれど、イマイチ意味が分からず、やってみたけど効果が薄い、どうしたらいいかと困っていませんか?

この記事ではそんな方に向けて、物欲とどのように向き合えばいいのかを仏教を基に解説していきます。方法だけでなく、方法の原理まで詳しく解説していきますので、ぜひ読んでいってください。

また、ミニマリストの方で、もう物欲が無いと思うけどなんで物欲が無くなったのかイマイチよく分からないという人にも、ご自分の理解を深める内容となっています。

せい

仏教に学ぶといっても、仏教徒になれというわけではありませんので安心してください。

まず最初は、そもそも物欲は無くせるのか?という点について解説していきます。

物欲は無くせるのか?

結論から言って、物欲は無くせません。どうしてそれが断言できるかというと、お釈迦さまですら物欲は無くせなかったからです。お釈迦さまができなかったことは、ぼくたち凡人には到底できるわけがありません。

お釈迦さまというと、悟りを開いた人であり、欲が無い人と思われがちです。ですが、実はその解釈は誤りです。悟りを開くことは、欲を無くしたことではありません。

悟りを開くとはどういうことかというと、すべての欲を認識した状態です。欲と言えば煩悩、除夜の鐘ですね。108ある煩悩全てを認識した人が悟りを開いた人になります。悟りを開くことを『開眼』と解釈する方もいますが、それはすべての欲が見えるようになったということでもあります。

お釈迦さまは物欲が無いわけではない。物欲はあった。では、物欲とどのように向き合っていたのか、それを次から解説します。

お釈迦さまと物欲の向き合い方

お釈迦さまは物欲を悪魔と称していました。

物欲から来る『欲しい』という声を、悪魔のささやきとみなしていました。そして、そのささやきをお釈迦さまはその都度退けてきました。悪魔のささやきは一度や二度では済みません。お釈迦さまは悟りを開いてから死ぬまでずっと、物欲を含めたすべての欲から生じる悪魔のささやきと戦い、そして勝ち続けてきた人なのです。

ですので、現実的な話としまして、物欲を無くしてハイオワリとはいきません。物欲との戦いは死ぬまで続きます。この事実に心が重くなったかもしれませんが、これは決して偽らざる真実なので、そのままお伝えします。

残念ながら、ここまで読んで「もう私には物欲をどうこうするのは無理…」と思う方は、ここで読むのをおやめください。時間の無駄になってしまいますから。

ここまで読んで、それでもなお物欲をなんとかしたい!そう思う方だけ、この先に進んでください。

では次からは、具体的な物欲との向き合い方を紹介していきます。

具体的な物欲との向き合い方

物欲とどのように向き合うか。その方法を、現代的なイメージで紹介します。

物欲を、論破してください。

「欲しい!」というささやきが聞こえた時、その声を論破するのです。欲しいという声が黙ってしまうような、様々な条件や理屈をぶつけるのです。

  • それは必要か?
  • その値段は適正か?
  • 買ったあといつまで使い続けるのか?
  • 壊れた時、どう処分するのか?

などの質問を物欲にぶつけます。そして、物欲が質問に答えられなくなった時が、あなたの勝ちです。物欲を退け、あなたは無駄な買い物をしないで済みます。

しかしこれが実際にやるとなると難しい。欲しいという声が聞こえた時、大半の人はその声の通りに動き、買ってしまいます。

どうして物欲通りに人は動いてしまうのか。それについて次から解説していきます。

物欲のままに動いてしまう理由

物欲のままに体が動いてしまう理由は、体と心が一体化しているからです。当たり前のことと思われるかもしれませんが、実はちょっと違います。

例えば、心でものすごく怒っていても、それを顔に出さない人がいますよね。これは、体と心が一体化していないからできることです。体と心が一体化していれば、心が怒れば体も怒る。赤ちゃんのように年齢が低いほど心と体が一体化しており、感情にとても素直ですね。

逆に年齢を重ねるほど、心と体は徐々に離れていきます。ご老人の中には穏やかな方が多いですが、それは心と体が離れ、心の様々な感情や欲によって体が動かされていないからです。

感情も物欲を含めた欲も、すべて心から起きるものです。その心に対し、体=『自分』を切り離します。心と『自分』が離れることで、上記で挙げた『物欲を論破する』という構図が成り立ちます。

仏教では、心と体は別々であり、繋がっているわけではないと考えられています。

なので、物欲を論破するためには、まず『自分』と心を切り離す必要があります。次からはその方法について紹介します。

『自分』と心を切り離す

『自分』と心を切り離す、その最も一般的な方法が瞑想です。

瞑想といいますと心を無にする方法と思われがちですが、実際には違います。正確には自分の心を観察するのが瞑想です。

瞑想は、あぐらで座り、目を閉じて自分の呼吸だけに集中するという方法です(厳密には他の瞑想もありますが、ここではこの方法で進めていきます)。なぜ目を閉じ、呼吸に集中するかというと、目という外部からの刺激の8割を占める視覚を閉じ、呼吸によって体の感覚だけに意識を向けます。そうすることで、体と心が一体化していないことを認識していきます。

先の表現と矛盾しますが、実はそもそも体(『自分』)と心は別々であり、最初から切り離されています。しかし、誰もが無意識に一体化していると思い込んでいます。その思い込みに気付くのが瞑想です。

呼吸だけに意識を集中すると、体の感覚と心が別々であるということに気付き始めることができます。これについては、どうしても言葉だけで全てを説明することは難しいです。とりあえず、座って目を閉じて、呼吸に集中してみてください。呼吸に集中するのが難しいという方は、深呼吸でも同じです。ゆっくり吸って、ゆ~っくり吐いてください。

深呼吸を続けるうちに、あなたは心が何もしゃべっていない、つまり思考が止まっていることに気付くようになるはずです。しかし深呼吸をやめた途端にまた思考があれこれ浮かび始める。思考が止まっているのはほんの一瞬なので気付きにくいですが、瞑想を続けることでその瞬間を気付けるようになります。

深呼吸…つまり、体の感覚に意識を集中させていると心は何もしゃべられない。そして心は自分の意思なく勝手にしゃべりだす。つまり、心は制御できない、『自分』とは別の存在であるということが分かることが瞑想の効果です。

さて、じゃあ物欲が無い(と思い込んでいる)ミニマリストは瞑想をしているのかというと、そうではない人もいます。ですが、そういう人たちも『自分』と心を分け、物欲を論破しています。

どうして瞑想をしていないのに、物欲を論破できるミニマリストがいるのか。それについて解説していきます。

瞑想無しで物欲を論破するミニマリスト

瞑想によって、『自分』と心を分けるというお話をしました。ですがこれは数多ある方法のひとつで、他にも方法があります。

それが実は『捨てる』という行為です。

正確に言えば、捨てる際に『問う』ことが大事です。問うという行為には、必ず問う人と答える人がセットで存在します。では、一人で問う場合、誰が問う人で、誰が答える人でしょう?

それが、問う人は『自分』であり、答える人は心なのです。

捨てる際に問うことで、『自分』と心が別々であるという認識を無意識に深めることになります。物を捨てるとき、答える人は心であり、物欲です。物欲は捨てようとする『自分』に、「もったいない」「まだ使える」と反論します。それに『自分』が問いを重ねることで、心は反論する余地を失い、物は捨てることとなる。

関連記事→ミニマリストにとって最も重要な行動は『捨てる』ではない!?重要なのは『問う』こと

つまり、捨てることは、本質的には物欲を論破すると同じなのです。物欲を論破するための下準備が、捨てるという行為になります。ですから、捨てるという行為を繰り返すことで、物欲は無くなっていく(ように見える)のです。

ぼくは瞑想と捨てることを同時に進めてきました。そのため、瞑想と捨てる行為に共通点があることに気付きました。元々瞑想は別の目的で行っていましたが、思わぬ副産物の効果もありました。

物欲はずる賢い

さて、ここまで徹底的に欲とどう向き合うかを解説してきました。しかしここまで読まれて、「そこまで物欲は敵視していいのか?」と思う方もいるかもしれません。

お釈迦さまは物欲を悪魔と称しました。それは、物欲がとてもずる賢いからです。

分かりやすいように、食欲で例えます。あなたはダイエット中です。甘いお菓子は厳禁ですね。しかしどうしても食べたい。そんなとき、心は「1個だけなら食べてもいい」とあなたにささやきます。

1個だけなら大丈夫だろう。そう思って口にします。

しかし、1個では物足りない。するとまた心がささやきます。「1個も2個も変わらない。食べてしまえ」と。そうして2個目に手が出る。そしてまたささやいてきます。「2個も3個も一緒だよ」。そうして、いつの間にか食べつくしてしまうのです。

このように、欲とは我慢するあなたに対しわざと最初のハードルを下げて提案してきます。そしてそのハードルを受け入れさせると、次から次へとどんどん要求が過剰になっていきます。

ゆえに、欲とはそのずる賢さから悪魔と呼ばれています。ですから、欲に対して敵視、論破するといった攻撃的な表現を用いています。

欲は決して小さくなりません。むしろはじめからとてつもなく大きいものです。もしあなたの物欲が小さくなったのだとしたら、それは悪魔の策略かもしれません。小さくなったと見せかけて、「このくらいなら買ってもいいだろう」という誘いに乗るのを虎視眈々と待ち構えているかも。油断は禁物です。

最後に

仏教の考え方から、物欲とどう向き合えばいいのかという方法を紹介しました。

まとめます。

まとめ
  • 物欲は消せない(お釈迦様でも不可能)
  • 物欲は悪魔である
  • 物欲は論破して撃退せよ
  • 物欲との戦いは一生続く
  • 物欲=心と『自分』は別々の存在
  • 大半の人は物欲に『自分』が振り回されている
  • 心と『自分』を切り離すことが大事
  • 切り離すための方法が瞑想
  • 物を捨てることでも瞑想と同じ効果が期待できる
  • 物欲はずる賢い

いかがでしょうか。物欲は目には見えないものです。物理的にどうこうすることはできません。なので、物欲に対するアプローチもまた、目には見えないものになってしまいます。

それだけに、こういったことに馴染みがない方からすると難解に見えるかもしれません。なかなかすぐにはピンとこないかもしれませんが、きっと分かる時がくると思います。

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ここまで読んでいただき、ありがとうございました。

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