[雑記]善意の同調圧力嫌い

能登半島地震から1か月ちょっとが経ちました。少しずつ復興へ進みつつあるようですが、そんな中に苦い情報が流れてきました。

能登半島地震後、被災地には多くの支援物資が寄せられていますが、そのなかには賞味期限切れのドリンクや避難所の人数分には満たない食料、衛生面が担保できない開封済みのお米、色が変わり果てたバナナ、さらには大量の古着とみられる衣類なども。

引用元:支援物資のなかには扱いに困るものも、溜まれば被災地がマンパワー不足に…災害時における本当の支援のあり方とは?

東日本大震災のときにも同じことがありました。古着もですが、とくに食料品は処分が大変でしょう。能登半島の自治体のゴミ分別はわかりませんが、物によってはパックから開封して分別しないといけないものもあるかもしれません。かといって放置しておけば、これから気温は徐々に上がり、腐って衛生面の問題も生まれる。

復興よりも、支援物資の処理を優先しなくてはいけないとしたら、ありがた迷惑もいいところです。

どうしてこんなことが起こるのか?

まずはもちろん、善意からの行動があるでしょう。他には、こういった支援行為をパズネタにしたい人たち。パズネタほどではないけど、人から褒められたいという承認欲求を満たしたい人たち。支援行為をしたという拍付け目当ての企業も含まれるでしょう。

しかし、それだけではないと思います。善意の同調圧力があるのでないかと考えています。

善意とは、自主的に人を助けたい気持ちだと思います。つまり、他人の行動如何で起きるものではないし、起こしてはならない。強制してはならない。

しかし今回や前回の災害を見るに、「支援しなくてはならない」と善意を強いられて支援行為をした人がいるのではないでしょうか。そういった人たちは、善意というよりも、義務感で支援行為をしたのではないか。

義務感からの行為は、非常に視野が狭いです。そのため、相手のことを考えるほどの視野がありません。義務感からくるプレッシャーを早く取り除きたいという気持ちが最優先。ですから、今現地で何が必要なのか?と被災者目線で考える余裕がなく、結果的にゴミになるだけのものを送り付けてしまったと見ています。

日本は同調圧力が強い国だと言われています。それは、善意でも同じだと思います。

ぼくは、ポストで「支援をした」というつぶやきを見るたびに、苦い気持ちになりました。まるで、「私がやったんだからお前もやれよ」と催促を受けているよう。ぼくは他人に強制されるのが大嫌いなので、それが良いことであろうとなんであろうとやりたくありません。

ぼく自身も以前は、ゴミ拾いをポストしていた時期がありました。が、今はやめました。自分の行為をほめてもらいたいという気持ちと同時に、「ゴミ拾いくらいみんなやれよ」というマウントを取りたい自分の気持ちが見えてしまったからです。

自分が良かれと思って発信したことが、誰かの重荷や不快感になってしまっていないか。そう考えたら、もうポストできなくなりました。悪いことをやめようならいざ知らず、良いことであっても他人にどう見えるかの配慮は必要だと思います。

最近、赤い羽根共同募金が問題になりました。あれにもいい思い出はありません。小学生から強制的に100円以上を募金という名の徴収。しかも、お金が無いからと募金しなければ、クラスメイトの間で貧乏だと笑いものにされる。あんな苦痛なことはありません。

ありがた迷惑。
小さな親切、大きなお世話。
善意が必ずしも良いとは言えないのは、昔からのこと。自分のため、独りよがりの善意を偽善と呼ぶのでしょう。

支援の輪とはいいますが、その輪を形作っているのは人の手か。それとも重くて硬い鉄の鎖なのか。

それではまた。